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一杯のコーヒー

コーヒーを飲みながら随筆を読む。そういう感覚のブログカフェへどうぞ。好評、更新中。
453、年末です
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    JUGEMテーマ:日記・一般


    ご無沙汰していました。気になる話題が出るにつけ、よし、何か書こう、とは思うものの、まともに考えるのがなんだか無意味に思えてしまい、書かずに時が経ってしまいました。
    つい最近の話題としては、新幹線の延伸でしょうか。地元の足になっている在来線をダメにしてまで、そんなに新幹線に乗りたいものなのでしょうか。絶対反対の自治体が出るかと思いきや、みんな賛成とは、周りの顔色でものごとを決める日本社会独特の傾向はまだまだ健在のようです。確かに東京行きは楽になるでしょうが、各自が生きているうちに何回利用しますか。そのことのために道民がいくら負担しなければならないのか、ばかばかしい限りです。
    その新幹線がやって来ないここ旭川では、巨費を投じた駅舎が改築新装。今流行の高架式で、鉄骨ガラス張り。ホームからは、すっかり景気が沈滞しきった街を眺めることができるようになりました。
    当初の夢とは裏腹に、道路と鉄路が立派になって街は沈滞。田舎は田舎なんですから、都会と同じお金の掛け方でいいはずがありませんヤ。
    今年もあと少し。もう、来年はよい年でありますように、とは言いたくないという気がします。勝手にすれば、っていう感じでしょうか。
    心ある方々、お互い、自分に集中しましょう。

    M9にズミルックス35ミリの最初期アスフェリカルレンズで撮ってます。20年も前のレンズですが、開放最短距離でこの画像です。現行レンズはもっと性能が上がっているようですが、この写りは十分過ぎます。
    | - | 10:16 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
    452、虫とか鳥とか
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      幼い頃、自然に恵まれた環境で過ごしたので、虫とか花とか小動物とかを日々の遊び相手にしていることがほとんどだった。月刊雑誌に付録の図鑑にはそういう生き物がたくさん載っていたので、これらを何度も見返していた。図鑑では、観察したことをじっくり確かめることができたし、その逆もあって、自然の仕組みに対して大いに興味をそそられたものである。
      たとえば、アゲハチョウの季節ごとの形態の変化も自分では気付いていて、それが図鑑に載っていたりすると、やっぱりそうだったのか、と大いに納得し、自分の満足感を満たすことができたものである。
      そういう少年だったので、当時流行の子供向けテレビ番組なんかは興味がなく、よく見たのは「みんなの科学」という教育テレビの番組だった。自分にとっては、こちらの方がよほど面白かったのである。
      そんなころ、この少年が思ったのは、エンマコオロギの鳴き声を聞いてみたい、クスサンという日本で一番大きいという蛾も見てみたい、ということだった。何故かというと、北海道には居ないとされていた虫だったからである。
      ところが浜益村に移り住んだ中学3年生の時、そのエンマコオロギ(正確にはエゾエンマコオロギ?)を見つけたのである。アレ?、と思った。その村の裏山の道端ではミドリシジミを捕まえたし、コムラサキも捕らえた。このときも、アレ?、と思った。北海道ではたしか数が少ないチョウチョだからである。これらのことは、海岸沿いなのでなんとなく理由がつくな、と当時は思った。
      それから二十数年の時が経ったある朝、入院していた病院横の街灯の下に、蛾の羽が散乱していたのを見つけた。久々にアレっ?と思った。たぶんヤママユガの仲間のモノだが、なんだろう?、クスサンにしては小さいし、しかも北海道には居ない種だし・・・。
      ところが去年の新聞に、クスサンが北海道に上陸していることが記事になっていた。やっぱりそうだったのか、と思った。少年のころ、図鑑で眺めた羽の模様の記憶は、いまだに頭の奥に残っているらしい。
      今では(エゾ?)エンマコオロギが庭で普通に鳴いているし、そのかわり、かつてうるさいほどに鳴いていたツユムシが減った。
      先日も車で札幌に向かう途中、久しぶりに悠々と空を舞うオジロワシを見た。20年以上も前だと、真夏にこの鳥を見ることは少なかったが、数は多くはないものの、今は一般化してしいる。
      図鑑の記載が、自然の変化に追いつかない時代になってしまった。


      | - | 10:42 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
      451、ギター弾きの集まり
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        心平さんから譲り受けたギターを持ち寄って、そのギターの由来と演奏を披露するという集まりがあった。こういう企画は、いかにも「心平さんらしい」発想である。呼びかけた山崎さんは、発想まで似てきた。当のボクは、それらのギターについてほとんどわからない。
        集まった人の中から、「このギターはロクタロウの作で・・・」などという名工の名が出ると、その面々からは、一応は「ほう・・・」とか、「そうだってね」などという声が出る。しかし、話を聞き続けていると、このギターは落として壊したことがあるとか、塗装を剥がして塗り直すには・・・とか、誰々さんのは暖房機の傍に置き過ぎてバンという音が出たとか、その扱い方は、(ちゃんとそれなりメンテナンスは施されているのだが)音楽愛好家的フツーの人が聞くと尋常ではない。
        結局心平さんがアチコチに譲ったギターは11台もあるというのだが、その譲った数の多さとギターの扱いについての疑問は、イチゴーナナゴー(No.1575か、とボクは思った)という名のギターの由来を聞いて直ぐに解けた。
        会話の中でほぼ判明していたその由来だったが、後からやって来た(通称)黒ネコミッチャンが、あっさりかつしっかりと、その由来を駄目押し的に名言してくれたからである。
        「それはね、イチゴーナナゴー。心平さんが◎◎(リサイクルショップの名前)で1575円で買ったの。で、塗装を全〜部はがして塗り直そうとしたんだろうけど、はがしたところで面倒になって誰々さんに譲ったんだよ・・・。」 だいたいが、11台はそんなもんであるらしい。
        が、それらのギターは、それぞれちゃんとイイ音で鳴っている。特に、そのイチゴーナナゴーの音色は飛び抜けて軽やかであった。
        要は、自ら弾き歌うのが心平氏のフォルクローレであって、かしこまってこれ見よがしに聴かせるものではなかった。自分の歌と一緒に鳴ってくれるギターであれば、ちょいとばかりケガをしていてもイイ楽器なのである。
        モノは大事にしてもそれに執着することなく、目に見えない歌心が大事だ、ということ。
        早く着いたボクだけが食べたフランス製のサラミが旨かった。

        | - | 12:23 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
        450、「風評被害」だけか
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          以前、道内で核廃棄物処理施設の受け入れを決めた自治体があり、大きな関心を呼んだ時期があった。個人的には反対だったので、その自治体内で生産されるある食品については、今後買ってやるものか、と思ったことがある。生産者にはまことに申し訳ないが、個人として、その自治体の決定に意義を唱える方法があるかといえば、まずはそんなところか、と考えたからである。とはいえ、その食品は、私が買い物をするスーパーの店先で目にしたことがないので、この意思は未だ実質的効果を生み出してはいないのだが。
          今回の原発事故での放射能汚染においても、本来の風評被害とは別に、核利用に対する拒絶の意思表示的意味合いも大きいのではないか、と考えている。放射能汚染を許すわけにはいかないぞ、という、これまでの原子力行政への反発意識をも含めて、すべて風評被害という言葉で一括処理してしまうのには、はなはだ抵抗を感じるわけである。
          核を持ちたいという保守派勢力の野望と、核で儲けたいという財閥企業の野心とが、共に崩れ去ることを心より願う次第である。

          | - | 22:26 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
          449、変わらない、お上頼みの意識構造
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            な〜んにも書きたくない気持ちですが、ふと思い立ってちょっとだけ。
            国が基準を示さないから何も進まない、何も出来ない・・・。
            そうでしょうか。
            既存の法律なり政令なりを根拠に、自治体が条例を制定すれば、かなりのことが出来るのではないと思います。実際に、たとえば都市計画法では、災害復興の計画は市町村の権限なんです。これら法令の趣旨はごもっともなことだと思いますね。実情把握が徹底できない国に詳細な基準を作れと言っても無理でしょう。加えて国会があの体たらくですから、なおさらです。自分らの街は自分らで良いものにするのが当たり前ではないでしょうか。国に基準を求め続けるのは、一種の責任転嫁の現れとしか思えません。地方のこういう実行力の欠如は、お上尊重意識と表裏一体の姿勢でしょうね。自分らはよく分からないから国がやってくれよ、てなことでしょう。
            主権者は国会でなく国民ですが、アホな議員を選出して国をダメにするのも国民です。一人一人がもっとまじめに考えないといけないのでは?
            アホな議員を送り出しておきながら、彼らにもっとしっかりしろなどと要求することほど、馬鹿げたことはありませんからね。
            庭では、エゾシロチョウの幼虫がムシャムシャとヒメリンゴの葉っぱを食っております。お前らは人間様よりエライかもしれない、とじっと見つめる。
            | - | 12:01 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
            448、みなさま、いかがお過ごしでしょうか
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              さぞ世界の国々は呆れていることでしょうね。政治家のバカさ加減と、それに乗っかただけのマスコミの報道と。
              マスコミは盛んに、真実を伝えろ、などと叫んでいますが、それがお前らの仕事だろう?、と思いませんか。情報を得る術を知らないんでしょうね。
              最近はとんと新聞を読まなくなりました。かつては社会勉強と国語力向上のために読むことが奨励されていましたが、定型化された記事の内容と狭い論理なんか読みたくはありませんね。どーせ、どこからか買った記事でしょうし。わが家では新聞なんぞ無くても良いと思うくらいです。
              ケーブルテレビの同時通訳でBBCなどをみると実に面白い。訳が下手で分かりずらい部分はありますが、報道の内容自体が吟味されているのと、先を見通すような論理が明解。登場する専門家の役割も、世の中で生かされているのだろうという感じがある。
              政治、経済、そういう世の中の仕組みに無駄が少ないからではないでしょうか。メンツ、タテマエ、スジ、ジョーシキ、まあ、色々ありますね、日本の社会では。
              でも、プライバシーがうるさい欧米社会なのに、重要な情報はあちこちからすんなりと出てくるのはどうしてでしょうか。個の意識がしっかりしている民族性があるからでしょうね。個々の信頼関係の築き方がうまいんでしょう。だから重要な情報も手に入る。
              まずは人間学から学んで欲しいもんです。この国のマスコミでそれができるようになるには、まず100年はかかるでしょうけど。
              経済人、学者、地域代表などで組織する新しい政治の仕組みが必要なのかもしれません。政党政治は、既に役割を果たせないということが明白だと思いますね。国民の代表為り得ておりませんから。

              | - | 10:53 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
              447、チェルノブイリ原発事故での日本国内未発表ニュース
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                ・ロシアが穀倉ウクライナ地方の大麦・小麦・トウモロコシなど、1億二千万トン(史上最高)を収穫。
                ・スリランカの輸入食物から放射能検出
                ・フィリピンが輸入した有名ブランドの粉ミルクが放射能汚染
                ・オーストリアでは、汚染された豚肉がイタリアでベーコンに加工されたあと逆輸入
                ・レバノンでは、目が見えず耳の聞こえない羊が(東ヨーロッパ圏から)2千頭も輸入され、地中深部に埋葬することを保険大臣が許可
                ・スペイン領カナリア諸島で、未汚染の牛乳をドイツの輸入業者が買い占め。カナリア諸島へは汚染牛乳を輸出。
                ・スゥエーデンで鹿肉からセシウム検出
                ・イギリスでヒツジ肉が食用禁止
                ・ポーランドの汚染された牛が、イタリアとオーストリアの国境でストップ、処分された。

                同時代を打つ・立花隆(講談社・88年)の最初の項目からの引用です。

                あげるときりがないようですが、当時日本で報じられたのはフィリピンのニュースのみで、しかも小さな記事。
                規模が違うとは言いますが、他国ごとではありません。世界が神経質になる理由がおわかりかと思います。
                問題は、他国へ出回り加工されたらわからないということ。収穫したものをヤミで売りさばく業者がいますからね。
                それにしても原発を廃炉にするというドイツの英断はお見事ですね。政権の一時的パフォーマンスかと思っていたんですが、さすがに徹底した考え方の国です。
                そうなっては困るというのが、いま何やらくすぶっている政治屋連中なのでしょう。原発企業の利益も絡んでいますからね。
                日本のマスコミはそこら辺を暴けないものか。

                | - | 11:45 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
                446、写りすぎるレンズ
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                  某カメラメーカーのウェブサイトに付随したギャラリーの写真を見ると、レンズの絞りを開放にして撮影しているものが目立つようになった。このメーカーの新発売のレンズのコメントでは、解像力を得るために絞り込む必要はまったくありません、とまで言い切っている。たしかにその解像力たるやすさまじく、ボケも自然で、なにより抜群の透明感と立体感がある。開放からこんな描写なら絞り羽根なんて要らないと思うほどだ。
                  ガラスの素材や非球面レンズの製造技術の進展と新開発の受光部のおかげだが、なにせカメラを世に送り出したメーカーとして、妥協のない徹底したモノづくり精神の故でもあるのだろう。
                  しかしこんな悩みもある。少し前に男女二人の写真を撮った。1.4mほどの距離から、真正面ではなくやや斜め右からカメラを向け、手前側になる男性にピントを合わせて撮った。こうすることで女性はほんの少しだけアウトフォーカスになる。なぜそうしたかというと、女性の鮮明な顔の描写を避けたかったからである。
                  試しに一枚、女性にピントを合わせたカットも撮った。こちらの写真をパソコン画面で拡大していくと、シミやソバカス、細い小じわなどは勿論のこと、毛穴の一つ一つと皮膚の表面に塗布されたファンデーションの粉末まで、バッチリ写し込んでる。お見事、と言うしかない。レンズは広角の35ミリ。絞りは開放の1.4ではなく2.0に設定したのだが、それでこの写りである。といってもこれは最新のレンズではない。非球面レンズは使用しているが、もう20年ほど前のものである。
                  もちろん画像はスッキリとキレイな発色で立体感はこのメーカーならではのもの。背景のボケ具合も自然で穏やか。でもこんなに写らなくてもいいのに、と思う。
                  プリントすれば画面で見るように鮮明には出ないが、やはり「はい、写真です」といってデータの形で差し上げる気にはちょっとならない。
                  人を写すには、やはり60年前の3群4枚構成のレンズがいい。

                  | - | 20:32 | comments(1) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
                  445、アルペジョーネ ソナタ
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                    35年ほど前(定かではない)、私がまだ学生のころ、心平さんが自宅に来たことがある。恵庭に住んでいたころだった。ボクのステレオ装置の音を聴きに来るが目的だった。
                    そこで聴いたのがシューベルトのアルペジョーネソナタで、彼はによれば「この装置のスピーカは弦には向いていないな」だった。
                    この時聴いたレコードは、はっきりとした記憶がないが、たぶん彼が視聴に持ってきたのだと思う。ロストロポービッチとブリテン(作曲家)がDECCAに残した名盤で、今でも(ピアノがちょっとギコチナイのですが)この演奏にかなうものはない。
                    アルペジョーネという楽器は、小ぶりのチェロのようなものであるらしい。現存しない楽器なので、現在はチェロで演奏する。
                    美しく、切なく、物悲しく、シューベルトの曲というような枠を超えた音楽作品、という気高い雰囲気が漂っている。
                    「オンナジことばっかりやっているモーツアルトなんかよりずっといいさ」という彼のことばを覚えている。
                    それはどうかな、と思ったが、たしかにハズレてはいない。

                    興味の有る方は入手してみることをお進めします。
                    シューベルト:アルペジョーネソナタ
                    チェロ:ムスティスラフ・ロストロポービッチ
                    ピアノ:ベンジャミン・ブリテン
                    録音:DECCA 1968 London 

                    今回の津波、腐れ政治を呑み込んでくれればよかったんですが・・・。
                    勢力争いやってる場合か。
                    県も国の指針なんぞ待たずにできるからさっさとやるべきでしょうに。
                    | - | 21:39 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
                    444、社会的本能?
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                      建設業を営んでいる友人が来て、こんなことを言った。
                      「この国は、みんなが人間というものを大事にしない方向に進んできた。自分で自分の首を絞めてることにどうして気がつかないんだ?」
                      こうも言った。
                      「イタリアとかイギリスとか、あっちへ行くと今でも職人の仕事があって、ちゃんと仕事してるんだよ。ああいうの、いいよな・・。」
                      これには、石の文化なので古いものが残せたから、という理由が挙げられるのでしょうが、湿潤な気候に加えて災害が多い日本では、壊れては造るを繰り返さざるを得なかった、ということもあるのでしょう。
                      だから新しいものができるとなれば、古いものは躊躇無くぶっ壊すのかもしれない、と思ったりもするのです。ところが、経済システムと物の生産システムが変化してきたものだから、職人の出る場がどんどん減ってしまった。
                      つまりは、人が喜びをもって生きていくことの術まで無くなってしまった、というわけです。
                      もし、人々の間に古いものを大事にするという意識がもっと強くはたらいていたなら、事態はもう少し良い方向に向いていたのでしょう。
                      ここで、心平さんが「古いもの」について繰り返し言っていたことを思い出すのです。
                      ボクは、古いものを大事にする、というのは、人間が生きていく上での社会的本能のようなものだと思うのです。自然界でいえば、動物が本能的行動をとりながら命を維持するのと同じようなものです。
                      別な言い方をすれば、「こうしていけば、たぶん社会的に幸せに生きていけるのではないか」というような、人間的良識とでもいえるでしょうか。理論を待たずに、自然に進むべき方向性を感じ取るような、いわば無意識的感性というようなものです。
                      ただ残念ながら、良識というものは誘惑に弱い。これが弱点なんでしょうね。
                      人に首を絞められれば抵抗できるんでしょうが、自分で締めている場合は気がつかない。たぶん死んでも。


                      | - | 11:55 | comments(1) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |